2017/03/09

黒いランドセルを選んであげたかったけれど

本を読んだり、映画やドラマを見て、まるで自分のことのように思うことがありますが、私は昨日の朝、ある新聞記事を読んでまさにそう感じました。

朝日新聞3月8日の朝刊より

記事の内容はざっとこう。小学生の女の子を持つ両親が、入学前に娘にランドセルを買おうと一緒にお店に行き、娘が黒いランドセルを選んだ。お店の人に「女の子で黒だといじめられるかもしれないから、もう一晩考えて」と言われ、結局両親は「気に入ったなら買っていいよ」と黒を買ってあげた。でも、クラスの男子からはからかわれ、女の子は黒のランドセルが嫌いになり、カバーや雨除けで隠して登校していた。それが2学期になり、転校してきた友達に「気にしなくていいよ」と言われ、「頑張ってカバーを外す勇気が出」て、それからは今も黒いランドセルを使っているという。

私も一昨年、娘にランドセルを買ってあげる際、同じように一緒に店に入り、何色を選ぶのか見届けようとしました。すると娘はさーっとカラフルな列を眺め、そして最後にきっぱりと、黒のランドセルを選んだのです。

その時の私の心境は、この話の中の店員さんのコメントそのものでした。黒を選ぶそのセンスは好きだけど、でもやっぱり、黒だと学校で周りにいじめられる気がしてならない。100歩譲って紺ならいいけど、とか、訳の分からない自分の価値基準を押し付けてしまいました。さらにそのお店の店員さんも、学校で想像できる展開を心配して、ほかの色を勧めました。結局娘は茶色で妥協してくれましたが、そのランドセルを購入したときの後味の悪さと言ったら。自分で考えて意見を決めなさいと、普段は娘に偉そうなことを言うくせに、自分がやっていることが全く伴っていない。そんな自分が情けなかった。

あのとき私は、勇気がなかった。娘が決めたことなら、いじめられたって何とかしようと、どうしても思えなかった。やっぱり娘の周りの反応が恐かった。

でも、それを続けていたら何も変わらないよね、と、新聞記事の小学生に言われたような気分でした。偏見や差別を変えていくのは、固定観念の呪縛から逃れる勇気を持つこと。たとえばLGBTの問題も、難民問題も、あらゆる差別の問題も、その根幹は小学校のランドセルの色選びと同じ。新奇な意見を強い気持ちで言う勇気を持つ難しさを、象徴しているように思えました。

この記事を読み終わって、朝ご飯を食べていた娘に聞きました。
「本当は、黒のランドセルが良かったんだよね」と。
すると娘はこう答えました
「でも、今は茶色も大好きだよ」
それが本心かどうか、問いただしたところで何の意味もない。
残る事実は、勇気が出せなかった母の私が、茶色に変えてしまったということだけ。

今でもときどき、あの店でのことを思い出してしまいます。黒で決まり、いいねと言ってあげられなかった後悔。もし次に似たようなことがあったら、私はできる限り本人の考えを尊重しないといけない。男は男らしく、女は女らしくという、善意や悪意以前の知らず知らずに植え付けられてしまった価値基準に、疑いの目を持つ勇気を持ちたい。本人の意思を尊重して黒のランドセルを買ってあげた、この新聞記事のご両親のように。

昨日3月8日は、国連が決めた国際女性デー。差別や偏見を変えていく小さな1歩は、まずは家庭や職場の中の自分事の範疇で踏み出さないとと、新たに心した朝でした。

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